「シネマラムール」の管理人くらのすけの映画鑑賞日記です。 なるべく、見た直後の印象を書き込んでいるのでネタバレがある場合があります。その点ご了解ください。

映画感想「夜明けの祈り」「ウィッチ」

kurawan2017-08-10

「夜明けの祈り」
非常に丁寧に作られた人間ドラマという感じの作品で、人間が持つべき本来の姿が、自らが作った制約と愚行のためにいつの間にか誤った方向に進んでいるのを見据えるかのような作品でした。監督はアンヌ・フォンテーヌという人です。

夜明けの祈りを捧げているう修道女たちのシーンから映画が始まる。そして一人の修道女がそっと抜け出し森を抜けたところの野戦病院に医師を探しに来る。時は1945年12月ポーランドです。

そしてフランス人医師マドレーヌを見つけた修道女は彼女を修道院へ連れて行く。そこには今にも生まれるようなお腹をした一人の修道女が横たわっていた。第二次大戦終戦後、突然やってきたソ連軍の兵士に修道女たちが暴行され、七人が身ごもったのだという。しかし、厳しい戒律から彼女たちは信仰と過ちに苦しんでいて、決して外部に助けを求められないのだという。

マドレーヌは人目を偲びながらこの修道院に往診に出かけるようになる。そして一人の赤ん坊が生まれる。しかし、修道院で育てられないので院長が知人の女性に養子として預けるように進めていた。

しかし一人また一人と生まれる中で、産むことで母に目覚めた修道女は、自分の赤ん坊が院長によってどうされていたのかを知ることになる。そして赤ん坊がいなくなったことを悲観し自殺してしまうのである。実は、院長は赤ん坊を雪深い森の中に捨てていたのである。

やがて、マドレーヌも去る日がやって来る。まだ生まれていない赤ん坊などの危惧もある中、思いついたのは、修道院で孤児たちの面倒を見、それに紛れて赤ん坊も面倒を見るというものだった。

やがて、修道院は赤ん坊の声と子供たちの元気な声で明るくなって行く。宗教への真の思いを知った修道女たちの明るい姿が写されて映画が終わる。

実際、キリスト教徒でもない私たちには、前半、頑なに医師の診察を拒み、死を選ぼうとする修道女の姿は理解しがたいが、キリスト圏ではなんの疑いもなく受け入れられる展開なのだろう。だからこそ、後半の一気に俗世間と混じり合うかのようなシーンが生きて来るのだと思う。

本当の意味でこの作品を評価できるのはキリスト教圏のしかも女性だけなのかもしれない。ただ、映画的に見れば、森のシーン、修道院のシーンなどしっかりと据えられた映像は評価してしかるべき出来栄えになっていると思います。良質の一本でした。


「ウィッチ」
もちろん正当なホラー映画なのですが、全体の空気が幻想とも現実とも思えない独特の空気感、さらにアメリカ映画と思えないような北欧風の殺伐とした画面作りが独特の怖さを作り出している映画でした。監督はロバート・エガース。

ニューイングランドの森の奥の一軒家、敬虔なキリスト教徒のウィリアムとキャサリン夫婦。長女のトマシンは何かにつけ母親から用事を言われ、何かにつけ叱責を受ける。長男のケイレブは少しづつ思春期に差し掛かっているようで、姉の胸の膨らみなどにほのかな性的な感情を持ち始めている。末の双子はトマシンは魔女だ魔女だと遊び半分にからかって、親の言うことも聞かない。この双子もどこか不気味に見えるのは画面のせいでしょうか。

トマシンは末の赤ん坊のサムをあやして森のはずれで戯れていたが、突然サムが行方不明になる。サムが消えた後、シュールな映像でサムが何者かにさらわれ、いかがわしい儀式が行われたかの画面が映る。

結局、サムは見つからないが、一方でその日暮らしで次第に追い詰められて行く母キャサリンは、ついトマシンにあたってみたりする。その様子は、女になったトマシンに夫ウィリアムさえも取られるのではと言う女の嫉妬にさえ見えて来る。

ここにブラックフィリップというヤギを飼っていて、双子はこのヤギと話ができるかのような遊びもしている。何もかもが不気味な展開をして行く。

ある夜、ケイレブの提案で森に出かけたトマシンだが、不気味な空気に包まれ、ケイレブは森の奥に入っていってしまい、トマシン一人が帰って来る。そして、ケイレブは森の中の不気味な家に引き寄せられ、出てきた女に吸い付かれるように口づけされる。

ある雨の夜、ケイレブは全裸で戻って来るが、何やらうわ言を叫んだまま寝込んでしまう。両親もこれは魔女の仕業だと信じ、さらにトマシンが魔女ではないかと疑い始める。やがて、ケイレブも死んでしまう。

みるみる狂気に包まれて行く両親はトマシンと双子をヤギの小屋に閉じ込め一夜を過ごさせるが、悪魔は空から双子をさらい、ケイレブとサムの亡霊を母の元に使わせる。そして世が明け、トマシンを責め立てる父ウィリアムに、ブラックフィリップは突進してツノで突き刺し殺してしまう。

魔女だと叫ぶ母キャサリンはトマシンに襲いかかるが、トマシンは、近くに落ちていた鉈で母を殺してしまう。何もかも狂ってしまったトマシンはブラックフィリップに尋ねる。「なにがほしいの?」ブラックフィリップはあらゆるものを与えてあげるから、目の前の本に署名しろという。それは悪魔の契約書だった。

トマシンは全裸になりその本に署名、森の奥に行くと、魔女たちが踊り狂っていた。そして彼女らは空中に浮かび始め、それをみていたトマシンも次第に空中に浮かんで行く。高らかに笑うトマシンのカットでエンディング。

独特のホラー感で、やや高級な作りになっているし、北欧風の色彩を抑えた映像処理もなされている。しかし、全体に見えるのはあくまでホラー映画であるというコンセプトを崩していないのは立派です。

この手の映画は下手をすれば駄作になるかグロテスクになるし、成功すれば「ぼくのエリ200歳の少女」のようなスタイリッシュな傑作になる。のですが、そのどちらにも届かないオリジナリティはなかなかの一本と言えるかもしれません。

映画感想「トランスフォーマー 最後の騎士王」「破れかぶれ」「メキ

kurawan2017-08-09

トランスフォーマー 最後の騎士王」
相変わらずクライマックスは抜群に面白い。ほとんどCGゲームの世界になるけれども、絵作りがうまいのだろう。ものすごい奥行きと大きさを感じさせる画面が圧倒的な迫力で締めくくって行くのはこのシリーズの最大の特徴。今回IMAXカメラで撮影された臨場感は半端じゃなかったと思います。残念ながら今回はIMAXで見れなかったけれど。

監督はマイケル・ベイ、製作にスティーブン・スピルバーグが参加しているのは従来通り。やはり楽しめました。

正直、ストーリーの全体像はよくわかっていない。映画は暗黒戦争時代のイングランドに始まり、太古の昔から人類の歴史に関わってきたオートポッドたちの存在をまず描く。そして、魔術師マーリンが持っていた杖を手に入れることで地球を救う、あるいは地球を滅ぼすことになる壮大な物語を現代に至って描いて行く。

地球を死滅させ、自らが生き残ろうと迫って来る異星人たちと敢然と戦うハンブルビーたちだが、前作までにオートポッドは人類の敵とみなされていて、身を隠していた主人公たちに政府機関が迫って来るというスリリングな前半も見せ場にしている。

そして、クライマックスは全人類とオートポッドが一丸となって征服者に立ち向かって行く。ラストは見せ場の連続というか、戦闘シーンの連続ですが、さすがに少々飽きてきたかな。それぞれのロボットたちの個性を見せる戦闘シーンには今さら必要もないし、敵方のボスの存在感が今ひとつ弱いので、なるべくして人類は守られたという流れが見えてしまったのはちょっと残念。

でも、二時間以上あるものの、ほとんど退屈はしなかったからいいとしましょう。


「破れかぶれ」
凝縮された青春群像という感じの映画で、主人公がどんどん落ちて行く様と若さゆえにどうしようもないもどかしさ、そしてそんな男と離れることのできない女のもろさが圧倒的な迫力で迫って来る様が圧巻。確かに小品ですが、その凝縮された映像にのめりこんでしまいました。監督は蔵原惟繕です。

主人公光夫は貧乏バーのマダムと同棲暮らしをしている。何をやっても裏目になり、その度に金を借り、さらに裏目に出て行く姿を描いていますが、どうしようもないこの主人公が痛々しいほどに純粋に見えなくもない。

対する彼と同棲しているマダムもまたどうしようもなくこの男を捨てられない。

兄貴分の金を競馬ですってしまい、さらにその穴埋めにするために工面した金がさらに裏目に出て、最後は大物のヤクザの金にまで手をつけ、マダムのかけた保険金で返せと言われてマダムを車でひき殺そうとするが、結局できない。そんな姿を見たマダムは彼の元を去って行く。

画面奥に消えて行くマダム、カメラは地面すれすれに手前にどんどん引いていってエンディング。もちろん、当時流行ったゴダールの作品などの影響もあるでしょうが、これはこれで独特の熱さを感じさせる作品だったと思います。


「メキシコ無宿」
なんとも適当な一本。これもまたプログラムピクチャー時代の添え物映画という感じでした。監督は蔵原惟繕

主人公は危険な仕事ばかり請け負う奇妙な仕事屋で、一人のメキシコ人がせっかく貯めた金を奪われたので、相棒にして金を作ってやろうとする。しかし、仕事の途中の事故でメキシコ人が死んで、仕方なくその男の代わりにメキシコへ行き、その男の濡れ衣を晴らしてやり、金を渡して農場を買い戻してやろうと頑張る宍戸錠扮する主人公。

なぜか通じない言葉が突然吹き替えになるし、字幕になるし、通うじてないはずなのに、意味がわかってそれでも通訳らしい怪しい日本人が出てきてと展開が適当すぎる。

まぁ最後は行くべきラストにハッピーエンドで宍戸錠は馬に乗って去って行く。ってどうよ。空いた口が塞がらないほどの適当映画で笑いどころ満載でしたが、これもまた映画黄金期の空気感ですね。


「この若さある限り」
石坂洋次郎原作映画ですが、どこか夢のあるロマンス感がなく、妙に汗臭い色気が漂う作品でした。でも、こういう描き方もあるものだと思うと、ある意味特異なラブストーリーだった気もします。しかも、定番の吉永小百合浜田光夫なのですから。監督は蔵原惟繕です。この人のタッチはどこかテンポが早い気がしますね。

高校生の行雄は教師ののぶ子に恋心を抱いているが、隣近所の亮子は行雄のことを好いている。ひたすらストレートに気持ちをぶつけて来る行雄に最初は戸惑うものの次第に気持ちが揺れて来るのぶ子の姿と、そんな行雄にもどかしさを感じる亮子の物語が展開。

しかし、どこか卑猥感が漂うのぶ子の振る舞いが、かえって行雄の行動にも暑苦しさを生んで行く。しかし演出のテンポがリズミカルに進むので妙な淀みがなくラストシーンへ繋がるのはまだ救いであるし、そんな小気味よさはある意味独特の作品に仕上がっている気もします。

一人旅で出かけたのぶ子を追って行雄が行くが、その後の蚊帳の中のシーンもどこか汗臭さが見えるところは石坂洋次郎作品と思えない。のぶ子を演じた吉行和子のキャラクターゆえかもしれません。

吹っ切れた行雄が退院する涼子を訪ねて爽やかに去って行くのですが、全体からはとってつけたようなジーンになって締めくくることになった。しかし、教師と生徒のラブストーリーをこういう描き方もあるのかと思うと、監督の感性もなかなかのものだった気もします。

映画感想「海の勝負師」「銀座の恋の物語」

kurawan2017-08-08

「海の勝負師」
たわいのない映画です。まさに映画を大量生産していた時代の一本という感じの作品で、ストーリーも展開もその場その場で作っていったような流れで、一体どういう話かツッコミどころ満載。でも当時の空気感は感じることができるからこの手の映画はいいですね。監督は蔵原惟繕

主人公は何やら過去に人を殺したという疑いをかけられている潜水夫で、ここに、何やら潜水夫探しをしにやって来る二人の田舎者と絡み合って、さりげない物語が始まる。

潜水夫の神様と呼ばれながらも今はアル中の男と主人公がタッグを組んで、不法入国を手助けしているらしい悪人たちのと丁々発止の物語をひたすらアクションを交えて描いていきます。

細かい矛盾や説明は一切放っておいて、ただ走る殴る、転がる撃ち合うというのが所狭しと画面を覆って行くのはまさにB級アクション映画の世界。いやそれ以上でも以下でもない。こういうのを大量生産していって映画は衰退したのだろうなと思える一本ですが、これも映画史の一ページなのです。


「銀座の恋の物語」
メリハリの効いたストーリー展開とラストの畳み掛けのうまさ、脇役のキャラクターの効果的な演出、娯楽映画の脚本のお手本のような仕上がりの青春映画の傑作。始まりからラストシーンまでうっとりと引き込まれてしまいました。ラストは拍手したくなってしまった。監督は蔵原惟繕です。

夜明け近くの銀座、カメラは通りを駆け抜ける人力車を追いかけて行く。引っ張っているのは、知り合いの助っ人で一晩車を引っ張る主人公伴次郎。こうして物語は幕を開ける。

彼は貧乏絵描きで、恋人の久子に美術出版社への就職を望まれているが断固拒否している。彼と同居しているのが貧乏作曲家の宮本で、彼が作ったジャズ曲に歌詞をつけて歌っているのが伴次郎で、それが「銀座の恋の物語」である。

映画の前半は、貧乏ながら必死で生きる伴と宮本、そして久子の物語となり、結婚を決めて就職する決意をし、両親に合わせるため信州へ行く汽車に乗るのに新宿で待ち合わせる伴と久子の場面へ続く。ところが、駅に急いだ久子は途中で交通事故にあい、伴とはぐれたまま後半へ。一方夢を諦めた宮本は裏社会へ足を踏み込んで行く。

生死がわからないままに久子を探す伴の描写から、ふとデパートで彼女を見つけたものの記憶をなくしていて、その快復に奔走する伴と周りの人々の話が後半。

そこに前半で伴が描いていた久子の絵が宮本の手になっていてという流れから、ようやくその絵を久子に見せたものの、記憶は戻らず半ば諦めた中で伴は個展を開き大成功する。

その祝賀パーティ、部屋で待つ久子はふと手元のおもちゃのピアノに手を触れると、自然と「銀座の恋の物語」を奏でてしまい、一音でないながらも何かきっかけをつかむ。そこへ歌を口ずさんで伴が戻って来る。そして記憶がもどり、次郎の名を呼ぶ久子。二人は銀座の街へ出て行く。

そこに物語で絡んだ人力のおやっさんや密かに次郎に惹かれた婦警が通りかかって大団円
これが娯楽映画ですね。もう最高でした。

カメラアングルも素晴らしく、二人が語り合うところを下から見上げたショットの後ろに巨大なネオンがキラキラひかったり、様々なアングルで一つのカットをつないでみたりと、自由奔放なカメラワークも素晴らしい。シンプルでよくあるラブストーリーなのにこんなに素敵になる。これが映画黄金期の完成品という感じですね。もう拍手です。

映画感想「ファウンダー ハンバーガーー帝国のヒミツ」「甘き人生」

kurawan2017-08-07

「ファウンダー ハンバーガー帝国のヒミツ」
実話に基づいた一人の男の成功物語、というか、何故今までこの話が映画にならなかったのかというレベルの物語で、もっと史実的な映画かと思ったのですが、えらく楽しく観れた。というより全く退屈しなかった。監督はジョン・リー・ハンコック。脚本がロバート・シーゲル。そして主演はマイケル・キートン。この取り合わせが良かったのだろう。

ミルクシェーカーを売り歩く一人の営業マンレイ・クロック。機械を抱えて担当者と話すが、結局相手にされないシーンが繰り返される。ところがある日、会社に電話をするといっぺんに6台注文が入ったという。半信半疑で電話をすると、実は8台いるのだと返事が来る。

興味を持ったレイはその注文店に行ってみると、なんと30秒でハンバーガーを出す画期的なシステムで回るハンバーガー店があった。そして、その店の未来に勝機を見たレイは早速フランチャイズ化の交渉を始める。その店こそマクドナルドだった。

こうして本編が始まるが、こちらに正面切って訴えかけてくるマイケル・キートンのアップが繰り返され、最初は乗り気でなかったマクドナルド店のディックとマックの兄弟も、次第にレイという男に翻弄され始める。

そして、次々と新店舗を開店させて行くが、レイには思ったような利益が流れ込んで来ない。銀行に運転資金の交渉をして断られたところに声をかけて来たのが経営のプロフェッショナルな男。

そして、その男のアドバイスで、土地を買い、リース契約で次々と店舗を広げ、その管理法人を別に設立し、ディックたちからの束縛をかわして急成長を始める。そして最後には、マクドナルドの商標まで勝ち取り、ディックたちの店を無名のハンバーガー店にしてしまう。

いわゆる、野心家で起業家の一人の男のなりふり構わず邁進し成功した物語である。これが正しいことなのかどうかという道徳論に触れることは一切せず、アメリカ的なビジネスライクな描き方に徹したのがかえってドライなイメージで物語を展開させ楽しめたのだろう。

ここに、余計な感情論や人情論をわずかでも忍び込ませたら、退屈な映画になっていたかもしれない。ここは脚本家の腕でもあり監督の演出力だったのでしょう。そしてマイケル・キートンの存在感も功を呈した感じです。面白い映画でした。


「甘き人生」
たくさん映画を見て来ると、自分の感受性の範囲を超えた作品に時々出会ってしまう。いい映画だし、作品のクオリティも抜群なのはわかるのですが、入りきれない映画、それが今回の作品でした。

物語は一人の人間の切ない思いの丈を綴ったものだと思うし、繊細な映像表現を見ていればそういう映画なのだとわかる。挿入される細かいカットやフラッシュバックの映像に監督の細やかな表現が込められている。それは分かりながら入り込めないのはこれは女性の視点からの映画なのだろうかと思ってしまった。監督はマルコ・ベロッキオ

9歳の少年マッシモと愛する母親がテンポのいい曲で踊っているシーンから映画が幕を開ける。いかにも仲の良さそうな親子。一緒にふざけ、一緒にテレビ映画を見、一緒に電車に乗ったりしている。しかし、どこか寂しげな表情を時々見せる母。そんな母に寂しさを覚えるマッシモ。そしてあるひ、母がいなくなる。父からは心筋梗塞で突然亡くなったと聞かされ、葬儀も行われる。さりげなく窓を通して雪が降っているカットが何度か挿入されるがなんとも寂しげである。

幼いマッシモには母親が死んだことは信じられず、棺の中にも居ないはずだと叫ぶばかり。そしてあるひ、母絵解きは1990年代、大人になりジャーナリストとして成功したマッシモの姿が写される。しかし、部屋の中は妙に閑散として寂寥感が漂っている。
カメラが何気なく人気のない様子の部屋を捉えるのだが、そこにはマッシモは確かにいるのである。

大人のマッシモと子供時代の彼の姿が交互に描かれ、母親への想いが今尚絶たれていない様子が繰り返される。しかし、マッシモはエリーザという一人の女医と知り合い、何かが変わって来る。そして、母の死の原因が、病気を苦にした自殺だと叔母に教えられる。やがて母親への想いから新たに歩み始めるようになって映画が終わる。

確かに繊細である。いい映画です。なぜか胸にジワリとこみ上げて来るものはありますが、大人のマッシモがやたら髭もじゃでおっさん臭すぎてどうも最後まで入りきれなかった。いや風貌が原因だったかは不明ですが、私の感受性では素直に感動できなかったのかもしれません。本当にいい映画なんですがね。

映画感想「君の膵臓をたべたい」「嵐を突っ切るジェット機」「狂熱の

kurawan2017-08-04

「君の膵臓をたべたい」
いやぁ、思ってた以上にいい映画でした。泣かされたのもありますが、なんか生きる勇気を与えてくれたような気がします。とにかく、原作がいいのでしょうが、主演をした浜辺美波が抜群に素晴らしく、映画を最初から最後まで引っ張って行く。あまりに際立ったスターを入れなかったことが成功だったかもしれません。監督は月川翔です。

ある高校、図書館が閉鎖解体の下りになった旨を説明しているシーンから映画が始まる。そして一人の教師に本の整理が託される。彼はかつて、図書館の本を一人で整理したことがあった。図書室に入って、本を見ていると、過去が思い出されてきて物語はフラッシュバックされ、先生が学生時代だった物語が始まる。

人と関わることを嫌い、いつも一人で本を読んで過ごしている僕は盲腸で入院し、そのロビーで一冊の本を拾う。それは共病文庫と書かれていて、自分は膵臓の病気で間も無く死ぬと書かれていた。しかも取りに来たのはクラスでも人気の山内桜良だった。

こうして秘密を知った僕と桜良の物語が始まる。この桜良を演じた浜辺美波が抜群に愛くるしくて屈託のない笑顔が抜群に可愛いのです。そして、彼女に翻弄されながらも行動を共にし始める僕。何気ないはずの話が、いつの間にか引き込まれ、何気ないセリフの繰り返しが、どんどん切なさの一方で生きる不思議を感じさせてくれる。

桜良は自分が死ぬまでにやりたいことをリストにして次々と実行するが、ある日検査入院で学校を休む、さらに、予定していた以上に入院しなければならなくなり、落ち込むが決して僕にはその姿を見せない。そして退院。桜良が行きたがっていた桜を見に行くために、僕は彼女と待ち合わせるがいつまでたっても来ない。仕方なく夜の道を帰る僕にニュースが聞こえて来る。通り魔によって一人の女子高生が刺されて死んだと。その被害者こそが桜良だった。あっと言う展開だが、この締めくくりが命の大切さ、生きることの大切さを一気に伝えて来るのです。

一方そのことで落ち込んだ僕はようやく桜良の自宅にいき、共病文庫を手にして号泣する。現代では桜良の親友の恭子がこれから結婚式という。僕は最後に整理がほぼ終わった図書室に行くと、そこに奇妙な貸し出しカードを見つける。そこにはかつて桜良が僕に貸してくれた「星の王子さま」の本に書かれていた落書きがあった。その本にはずっと病気のことを隠して来た恭子への桜良からの手紙が入っていた。

結婚式に駆けつけ、僕は花嫁となる恭子に桜良からの手紙を渡す。恭子の夫となる人は僕が学生時代だった、やたらガムをくれたクラスメートだったり、散りばめられる人間関係もしっかりしているし、無駄なく原作の味を映像に仕上げた点では本当によく仕上がっていたと思います。

強いて言えば、北川景子だけミスキャストだったか。彼女ももう少し存在感の薄い女優を入れたらスッキリ仕上がった気がするけど、まぁこれも商売なので仕方ないですね。
でも本当にいい映画でした。


「嵐を突っ切るジェット機
小林旭主演のたわいのないアクション映画。物語もこれと言って面白くもなんともない。というより、よくわからない。ただ、自衛隊のアクロバット飛行チームが物語の中心なので、やたらジェット機が飛び回るシーンが当時としては珍しかったろうし、それが売りという感じです。監督は蔵原惟繕

クロバットチームに属する主人公だが、訓練中に事故があり解散になってしまう。主人公の兄は私設の飛行隊を率いて、飛行場を経営しているが、その運営が厳しく、何やら良くない人たちと付き合いがあるようで、その絡みで目をつけられている。そんな兄を戒めようと奔走する主人公だが、何やら、その悪者が飛行場で兄貴に無理やり書類を書かせるだの、匿えと迫るだので、最後は逃避行するのをジェット機で主人公が追いかける。

結局、兄は死んでしまい、アクロバットチームは再出発することになるが、主人公は戻る気もなく、最後にジェット機に乗っている姿を見せて映画が終わる。

なんだったのか?こういう作品を量産するようになって映画は斜陽化して行くのだろうというのが見え見えの一本だった


「狂熱の季節」
これは素晴らしい傑作でした。日本映画と思えないほどのダイナミックなカメラワークとジャズをバックに流しながらほとんどセリフを排除してひたすら役者の表情やアクションだけで物語を語って行く様が見事。SEX、暴力、虚無感、そして汗と炸裂する若さがギラギラと入り混じった映像に圧倒されてしまう。見事な作品でした。監督は蔵原惟繕

主人公がカフェでスリを働こうとするが見つかってそのまま少年鑑別所に送られる。そして刑期を終えて出て来た主人公は友人二人と浜辺へやって来たところで、スリを咎めて見つけられた男とその恋人に出会う。

主人公はこの二人を襲い恋人をレイプして去る。しかし、何事もなかったように振る舞われ、主人公たちとも出会い、絡み合いながらの物語が繰り返されて行く。

ギラギラ光る太陽が照りつけ、超クローズアップと長回し、手持ちカメラ風の大胆な動きで若者たちのどこか殺伐として空気感を描いて行く。背後にジャズがひっきりなしに流れ、虚無感さえも見え隠れする映像作りが本当に素晴らしい。

最後は主人公の友人の女も、レイプした女も妊娠し産婦人科で会うが、本来のカップルになろうぜと主人公が女を交換してエンディング。圧倒である。こういう日本映画もあったのだとまさに圧倒されてしまった。

映画感想「ある脅迫」「ハートストーン」

kurawan2017-08-03

「ある脅迫」
フィルムノワールの傑作という触れ込みであるが、どこかゆるいところがあるのは、日活色ゆえでしょうか。クライマックスへの緊迫感からもう一歩突っ込んだサスペンスで盛り上がるのかと思うとあっさりエンディング。監督は蔵原惟繕

銀行の通用門に一人の黒眼鏡の男がやって来るところから映画が始まる。次長に用があると言ったその男に、管理の爺さんが、次長は栄転で本部付になったと答えてタイトル。

場面が変わると滝田次長の送別会の席。幼馴染の中池は万年庶務課長でいつも滝田に見下されている描写が展開。

ある日、熊木というサングラスの男が滝田を訪ねてきて、浮貸しの証拠書類を突きつけ300万を要求、滝田が無理だと答えると、銀行強盗しろと強要しピストルを渡す。

翌晩が中池が宿直だとたまたま知った滝田は、彼を酒に誘い出し、しこたま飲ませて、強盗を実行する。ところが、居ないはずの中池がいて、結局、模擬強盗だといって立ち去る。そして、熊木の待ち合わせ場所に行くが、もみ合っているうちに熊木も死んでしまう。

万事うまくいったと思った滝田は、翌日、昨夜の自分の強盗を正当化し、宿直だった中池を笑う。ところが全ては中池が仕組んだもので、一気に立場が逆転するのだ。

本店へ向かう汽車の中で、中池は今後も自分の世話を見るように滝田に迫るのだが、刑事がやってきて、手帳を出してエンディング。銀行をやめてきた中池も、もちろん滝田も全てが終わってしまうラストがあっさりである。

短編を原作にしているので、このラストの鮮やかさはなかなか楽しいエンディングだと思うのですが、どこか緊迫感が弱いのとスピード感が今ひとつなのは残念。逆転してからがある意味面白い気もするのですがそのあたりがあっさりすぎるのでしょうか。でも面白かった。


「ハートストーン」
淡々と散文詩のように語って行く物語、あまりに繊細すぎるプラトニックな感覚で紡いで行く物語は、とてつもなく豊富で細やかな感性があってこそ描けるストーリーだと思う。その意味で、ずば抜けている作品でした。ただ、その細やかすぎる感性で、スクリーンに見えている映像の裏を読み解いて行くにはまだまだ私の感性では追いつけないところもあり、導入部は少ししんどかった。でも、素晴らしい一本です。監督はアイスランドのグズムンドゥル・アズナル・グズムンドソンという人です。

所々に雪が残る広大な山々が広がるアイスランドの村。少し行くと、切り立った崖と海が広がる。幼い頃から仲のいいソールとクリスティアンは思春期に差し掛かったばかりの少年。まだまだ子供じみた遊びに興じて魚を捕ったりするいっぽうで、近所の同年代の少女への密かな恋心も芽生え始めている。

ソールは、近所のベータという少女が好きで、なんとか親しくなりたい。そんな友達の思いを叶えるために、何かにつけソールに味方するクリスティアン。ベータとその友達のハンナ、そしてクリスティアンとソールは、一緒に遊ぶようになって行く。そしてそれぞれが男女のカップルのごとく親しくなって行くのですが、クリスティアンの心は何かの違和感を感じていた。

映像の中でははっきりと描かず、ひたすらプラトニックな演出で見せて行くのですが、それがわかっているのかそうではないのかという態度で答えるソールもまた非常に繊細な演出が加えられているので、見ている側は、これでもかという感性で画面を見続けなければいけない。

ある夜、クリスティアンはソールの家を訪ねるが、ソールは留守でベータの家に行ったとおしえられる。その日、ソールはベータと初めてのSEXを交わしたのですが、もちろんクリスティアンは想像のレベルで感づいてしまう。そして彼は自殺未遂をし病院に運ばれる。その場面もあえて画面に登場せず、セリフで語って行く。

やがて、クリスティアンも無事戻って来るが、両親は離婚することになり、この村を出て行くと知らされるソール。季節は冬になり雪が舞っていた。

部屋に鍵をかけ、自宅でこもっているクリスティアンに、窓から忍び込むソール。そして優しくクリスティアンのおでこにキスをして窓から出て走り去るソール。

岸壁で、一人の少年がカサゴを釣り上げて海に捨てているのを見て、かつてクリスティアンらと魚を取り、カサゴを釣り上げて踏みつけたことを思い出すソールのカットでエンディング。

物悲しいほどに寒々としたアイスランドの景色の中で繰り広げられる、繊細すぎる思春期の少年の友情とも愛情ともわからない微妙な心の動きを描いたこの作品の素晴らしさは、理屈で語られるものではなく、画面から伝わる感覚を感じるままに感じ取って、ソールとクリスティアンに同化してこそその良さがわかる作品なのだろうと思う。その意味でも、ずば抜けた感性が生み出す秀作の一本だったと思います。

映画感想「爆薬に火をつけろ」「第三の死角」「われらの時代」

kurawan2017-08-02

「爆薬に火をつけろ」
たわいのない映画ですが、だからのんびり楽しめる空気が楽しいのがこの手の映画ですね。監督は蔵原惟繕

土建業を営む主人公が工業地帯の埋め立て工事の仕事を請け負い、落札したものの大手の妨害を受ける。敢然と男の世界を前面に出して男気で突っ走るのが本編。さりげない女性キャストも挟みながらシンプルな話が流れていきますが、高度経済成長真っ只中の日本の姿がまざまざと見ることができます。

結局、クライマックスは台風で大損害となり、大手企業が引き継ぐことになるが、新たな現場に向かって旅立ってエンディング。

昨日見た作品もそうですがなぜかラストは台風というのは、ある意味、台風や自然災害に対する恐怖が今以上に人々に根付いていたのもわかる。

小林旭のスター映画ですが、やはり石原裕次郎に比べて存在感は格段に薄いですね。でも、プログラムピクチャー黄金期の空気感満載で楽しむことができました。


「第三の死角」
中心になっている男と女の話が周辺に飾られた会社乗っ取りの話に埋もれてしまって、どっちつかずに終息を迎えてしまったような空気のある映画で、仕上がりがいいのか悪いのかつかみどころがなかった。まぁ、それなりに楽しめたけれど、何処か物足りないところが見え隠れしてました。監督は蔵原惟繕です。

労働争議で解雇反対を訴える労働者のカットから映画が始まり、一代で企業を育てた会長のショットへ。そこに出入りするエリートサラリーマンの姿が物語をまず引っ張っていく。

ここに、この会社を乗っ取ろうと暗躍する人物の手下がいて、会社の極秘情報を手に入れたのち、その書類を持ち出した男を交通事故で殺す。

やがて、会長の娘に近ずいて大量の株式を手に入れようとする男、単純に出世のために恋人と別れて結婚しようと近づく男。それぞれが実は大学の同期だったというからみで、最後は二人が株主総会でぶつかり合うのだが、エリートコースを目指す男は乗っ取り屋に極秘情報を突きつけられ、二進も三進もいかなくなり自殺。一方乗っ取り屋を演じた同期の男も、こんな人生に嫌気がさし、ボスを撃ち殺すものの、自分も撃たれ死んでいく。

なんとも、すっきりしない幕切れを作っているという現実の厳しさと言いたいが、今ひとつ迫って来るものがない。蔵原惟繕監督作品によく見られる、今ひとつが、典型的に出た作品だった気がします。


「われらの時代」
とにかく、出て来る人物出て来る人物誰もがイライラするほど嫌悪感を催して来る。時折どきっとするようなスピーディなカットやカメラワークが見られるのに、台詞の一つ一つがイライラさせて来る。原作のくせか脚本のせいか不明ながら、やたらと苛立ちだけが盛り上がって来る映画でした。監督は蔵原惟繕

オートバイで疾走する若者のシーンから映画が幕を開け、外人の情婦を恋人にして生活する何事にも無関心な主人公と、トラックを買うのが夢の弟、フランスに敵意を持つアラブ人や、朝鮮人だと蔑まれることに反感を持つ男。さらに、色ボケしてると思えるほど品のない女、などなど誰も彼もいきていること自体不要ではないかと思いたくなる登場人物のみ。

物語はそんな彼らの混沌とするようなバラバラの話が繰り返されていく。さりげないセリフにさえ棘がありさりげないエピソードにさえ嫌悪感が生まれて来る。

主人公はフランス行きがかかった論文に入選するのに何故かラストで中途半端に反抗して後悔する。

サスペンスなのかプロパガンダなのかメッセージ映画なのか、蔵原惟繕監督自体も何か芯が一本通せないままに最後まで作ったという感じです。

あのシーンはすごかったなというのも所々にあるのに、イライラ感だけが募った映画でした。