初めて「山猫」を見たのはもう24年ほど前になります。もちろん、英語版の短縮版であったのでしょう。
本日見たのは、なんと40年ぶりによみがえったイタリア語完全復元版です。三時間の超大作であり、本物に徹したヴィスコンティの芸術が圧倒的な迫力で迫ってくる。
なんせ、調度品の数々、エキストラに至るまで本物を追求し、クライマックスのパーティのシーンはもう、圧倒されるばかり。おいてある調度品それぞれがすべて本物であり、しかも、趣味がよい。さすがヴィスコンティといわざるを得ないし、こんなシーンにこそ、ヴィスコンティの映画の醍醐味といえます。
24年前に見たときはまだまだ頭も柔らかくて、この手の芸術系の作品にも十分ついていけたのか、それとも、短縮版の方が、楽だったのが、正直、本日の3時間版は出だし部分はしんどかった。
つまり、コミックや、気楽なミステリーなどを読んでいて、久しぶりに専門書を読んだような疲れがあった。しかし、見たあとの充実感、芸術的な感動は、最近のそれなりの映画でも味わえないものでした。
バート・ランカスター扮する名門貴族の当主が、少しずつ迫りくる時代の変化の中で、自らの貴族の没落を予見し、目をかけている甥のアラン・ドロンに新興成金である実力者の娘との結婚を画策していく。
婚約の決まったアラン・ドロンとクラウディア・カルディナーレがサリーナ家の部屋を駆け回る、しかし、繁栄を極めた名門貴族サリーナ家も一歩生活に使う部屋を離れるとあれ放題になっているという下りは見事である。
じわりじわりと貴族の没落と時代の変化を画面に映し出しながら、終盤でバート・ランカスターが「かつて、われわれは山猫であり、オオカミだった。今や羊や野犬が取って代わろうとしている・・」というセリフが意味深い。そしてこのセリフのあとにクライマックスのパーティのシーンが入るのである。
どのワンシーンをとっても完璧に近い構図、そして、晴れやかな世界ながら、ぐっと押さえた備品で演出する画面づくり。クライマックスは、旧貴族の退廃を辛辣に見つめながら、そして新たに台頭してきた軍人たちの傍若無人ぶりを侮蔑しながらも、逃れることのない時の流れを実感し、それがそのまま自分の身体の衰えにつながっていく様は、もうのめり込むほどにすばらしい。
正直、頭がなまっているのか、ちょっとしんどいジャンルになりつつあったが、もう一度、また勉強してみたくなりました。来年初等のベルイマン特集までにもう一度、リフレッシュしておきたいと思います。
いい映画でした、さすがルキノ・ヴィスコンティ、うならせてくれました。