「シネマラムール」の管理人くらのすけの映画鑑賞日記です。 なるべく、見た直後の印象を書き込んでいるのでネタバレがある場合があります。その点ご了解ください。

映画感想「安城家の舞踏会」

安城家の舞踏会

昭和二十二年の作品であるが、そのカメラテクニックのすばらしさ、突出した映像演出の秀逸さに度肝を抜かれる傑作でした。時がたっているのでかなりフィルムは痛んでいるのですが、巧みにピントを送りながら次々と人物に焦点を移していく演出の見事なこと。冒頭からラストシーンまでこれが映画テクニックだといわんばかりに圧倒されました。

物語は華族廃止令で今や没落寸前の貧乏華族安城家が最後の思い出にと一夜の舞踏会を開く。そして、そこで展開するそれぞれの人々の姿を描いていく。
映画が始まると、主人公の安城家の次女の敦子(原節子)のアップから始まる。カットが変わると真っ白なバラが生けられた花瓶へ。しばらくそこで会話が続きカメラがパンすると長女昭子(入江たか子)の姿へ、さらにそこへ右からたばこの煙が流れてきてそこへピントが合いカメラが右にパンすると長男の正彦(森雅之)が画面にフレームインしてくる。この導入部は唖然とされます。

長年続いた安城家の屋敷が今にも手放さないといけなくなっている。次女はかつてこの家の運転手だったが今は運送業で財をなし、人間的にも優れている遠山に買ってもらおうというが、父はかつて自分を頼ってきた新川という男に引き取ってもらおうとしている。しかし、この新川は評判の悪い商売人で、安城家の主人が代理で送った叔父に断りの返事を持たしたらしいとわかる。

どうしようもなくなった父の姿を哀れんで一夜の舞踏会を提案する敦子。未だ華族のプライドの高い姉昭子は彼女を慕う遠山をいまだにさげすんでいる。一方、長男正彦は女中の聞くといい仲になっている一方で新川の娘曜子との縁談も持ち上がっている。

そんな背景の中で舞踏会が開かれ、それぞれの思惑と、没落していく華族の姿が見事な映像テクニックで描写されていくのである。

ドアの前で正彦がきくに話しかける背後にいつの間にきたのか敦子が立っていたり、父が新川にピストルを向けようとし、諍いになるシーンで大きくカメラの構図が斜めになったり、小道具やアングル、ピン送りなどテクニックの限りを尽くして演出されるこの物語はまさに名作の貫禄である。

やがて、舞踏会が終わり、誰もいなくなった屋敷で使用人、主人、それぞれにこれからの身の振り方を考え、一度は死を覚悟しながらも敦子に思いとどまらせられる父の姿を通じ、海辺に面したこの屋敷のベランダから敦子が海を見るショットで映画は終わる。一つの時代の終焉、新しい時代への変化、華族として日本を支えてきた人々の哀愁が実に見事につづられた一本でした。

難をいうと、舞踏会が終わってからのプロットがちょっとしつこいと思えなくもありませんが、テクニックを駆使した吉村公三郎の並外れた演出力、新藤兼人の見事な脚本に本物の映画の迫力を堪能できる一本でした。