「シネマラムール」の管理人くらのすけの映画鑑賞日記です。 なるべく、見た直後の印象を書き込んでいるのでネタバレがある場合があります。その点ご了解ください。

映画感想「六條ゆきやま紬」「ふがいない僕は空を見た」

六條ゆきやま紬

「六條ゆきやま紬」
松山善三監督の隠れた名作と解説された一本ですが、なんのなんの度肝を抜かれる傑作に出会ったという感じです。

映画が始まったとたん、画面に釘付けになったままラストシーンまで身じろぎもできなかった。眠くなるとか、退屈とかそんな余裕などありません。美しいとかすばらしいとかいう平凡な賛辞さえも意味をなさない抜きんでた名作、こんな映画があるものなのだと開いた口がふさがらなかった。

映画が始まると画面に人間の目がアップで写る。そしてそんな目、目がバックに映し出されてメインタイトルが続いていく。クレジットが終わると北国の厳しい海辺のシーン。彼方から一人の女、主人公のいねが歩いてくる。母の危篤の電報で実家に戻ってきたのだが、実家といっても浜辺に吹きさらしの貧乏屋で、戸板がかろうじて風をよけている程度。この電報は実は嫁を追い出すためにいねの嫁ぎ先の舅が勝手に打った嘘の電報だった。

実家の親が止めるのも聞かず、嫁ぎ先に戻るいね。まるでハンマーで殴られたかのようなファーストシーン、そして衝撃に打ちのめされるような物語の導入部にまず度肝を抜かれる。松山善三の脚本と演出のすばらしさ、岡崎宏三のカメラの美しいのはもちろんだが、カメラアングルから横長の構図、流れるカメラワークまでがすべて芸術的な域に達している。すべてのカット、すべてのシーンがまさに映像芸術なのだ。ここまでくると正直息苦しいほどだが、それでも次のシーン、次のシーンとその美の極致を待ち望んでしまう。

北国の旧家で紬織りを家業とする名家へ嫁いだ芸者上がりのいねはことあるごとに親戚一族からさげすまれ、姑からむごい仕打ちを受けている。夫は三年前に自殺し今は未亡人で、息子一人がいるがそれもほとんど姑の私物のようにいねから遠ざけられている。しかし夫の遺言をしっかりと守りこの家に二百年伝わる六條紬を今では無形文化財とまで指定されるまでにしたのはこのいねなのである。

物語はこのいねのけなげなまでの六條紬への情熱と、そんな彼女への古い慣習のままにさげすむ親戚、一族、姑の執拗ないじめを描いていく。いねを支える使用人の治郎はいねの夫に拾われ助けられた恩返しのために必死でいねについてくる。

人間の確執と強靱さが吹きすさぶ北国の景色を背景に描かれていく様はまさに壮絶と呼ぶしかない。しかも、時に超クローズアップで人の顔をとらえ、目をとらえ、画面から襲いかかるような迫力でいねへの仕打ちを描写していく。背後に不気味な声や音がひびく。黒ずきんの男たちが雪の中を徘徊し、シュールな中に身の毛がよだつような映像描写を見せてくれる。

といねが丁々発止で先祖の土地を売って借金を返すことを訴えるシーンは延々と長回しで息苦しいほどの緊張感を生み出すかと思えば、細かいカットとクローズアップでアップテンポなストーリー展開を見せる。いったい、こんな気の抜けない演出、緻密すぎる描写をどうすればできるものかと息を飲むのである。

木目に光る模様さえもとらえる岡崎宏三のカメラもすばらしいが、さらに、ライティングによる場面転換は舞台芸術の効果も見せてくる。空間が飛躍し、人物が入れ替わり、考えてみると単純な物語なのに、人間の感情の奥の奥に踏み込んでくるものすごい迫力が画面全体から漂ってくるのである。

雪がはらはらと舞い、積み上げられた積もった雪の隙間から見える景色、遠景でとらえる古い村の姿、荘厳ないでたちの旧家のたたずまい、木々のざわめきさえ聞こえるような森のショット、一つ一つ書ききれないほどの名ショット、名シーンが連続する映像は全くこれが映像芸術となった一本の映画の完成された姿なのだろうかとうなってしまうのです。

もちろん、ストーリー展開はそういう映像のリズムの中に生み出され、汽車に乗って去っていくいねをおいて、治郎が駅で飛び降り六條家に戻っていくラストは何ともいえない空恐ろしい感動を呼び起こして迫ってきます。これが名作、傑作、いや、これが映像芸術でしょう。みごと!!


ふがいない僕は空を見た
あんまり期待もしていなかった映画ですが、なかなかの作品でした。
最初は高校生の卓巳くんと田畑智子扮するコスプレ主婦里美(あんず)との不倫物語を中心に回っていくのかと思いきや、途中から卓巳の友達良太の話にながれがかわり、卓巳の担任の先生が妊娠しているというエピソードからどんどんこの映画のメッセージである命、子供、親というテーマへ流れていくととたんに映画がきらきらと輝き始める。

卓巳と里美のエピソードでは空間と時間を前後させながら少しずつストーリーが語られていく。そのテクニックのおもしろさに引き込まれていると物語は徐々に命や子供というさらに深い物語へ転換していく。原田美枝子扮する卓巳の母がなんとも淡々と息子の不祥事を受け流す行動が実にさわやかで、その母は助産婦という設定。そのアシスタントの口の悪い女もどこか愛情に満ちている描写も心地よい。

卓巳の友達はこの上なく貧乏で母親は男と出ていないし、祖母は認知症、いわゆる典型的な不幸のどん底なのにどこか悲壮感よりも生きているという存在感が光る。

一見、陰湿でうちにこもるかに見える題材なのに、どこか普通でどこか淡々と平凡。この不思議な感覚の中で、そういえば日常なんてこんなものかと思っていると、いつの間にか命というものの賛歌が聞こえてくるように思えるのです。

里美が去って落ち込んでいる卓巳が神社でしゃがんでいると母がやってくる。「お祈りをしにきたら息子に会った」さりげないが、このお母さん、子供のことをお祈りしにきたのだという。なんという心が暖かくなる演出だろう。

ラストで、卓巳の担任の先生が子供を産み、その裸の赤ん坊を見て卓巳が「やっかいなものをつけてきたな」と赤ん坊のチンチンを見て笑う。そしてエンディング。

いいなぁ、命ってこんなにも当たり前のようでとっても不思議でとっても大切なものなんだとさりげなく感じてしまう感動があるのです。憎めない一本、そんな映画に出会った気がしました。